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塾長ブログ.....思いつくまま そのままに。
「 必要悪 」 a necessary evil
鹿児島県の九州電力川内原発が再稼動を始めたと言う話題が、今日の新聞やテレビのニュースのトップで報じられています。
東北大震災以降、原発のあり方について各方面から賛否いろいろな意見が論じられています。原発は本当に必要なのか ??
私は原子力関連の専門家でもありませんので、原子力発電について知ったかぶりの意見を言うつもりはありませんが、率直な意見を書きたいと思います。
低コスト・安定供給が一番のセールスポイントであった原子力発電、果たして本当にそうだったのか…。
運転中の原発が作り出す電気の単純な生産原価は、火力発電等とは比べ物にならないほど安いのでしょう(過去のいろいろな記事によると)。
しかし、発電所が設計耐用年数に達し老朽化して、いざ廃炉にするとなった場合どれ程のお金がかかるのでしょうか。
いろいろな当てにならない試算はありますが、何年もかかって廃炉にし解体し核廃棄物の最終処理に何十年或いは何百年かかるか分からない状況の中、次の世代またその次の世代までそれを最後まで管理するコストを考えると莫大な費用がかかるのではないでしょうか。
そしてコストのこと以前に人体に及ぼすまだまだ未知なる影響を代々の負の遺産として残してしまうわけです。
原子力の理論、そしてその活用法(平和的な)を考え出した人は偉大である事は確かですが、しかし最後の結末まで考えが及ばなかったのでしょうか。
核反応で地球上に存在しなかったものまで作り出してしまっておいて、後の始末が出来ないなんて……はっきり言って、人間は人間が自分でコントロール出来ない物に手を出してしまったと言わざるを得ないでしょう。
何とかなるだろうの意識で、自分で制御することの出来ないものに手を出してしまったら、大怪我をするに決まってるんです。
しかし、遠い昔に比べ生活の価値観が変わった現在、大量の電気(電力)は普通に暮らす上で欠くことの出来ない存在です。
我々が消費する電力も一昔前と比較にならないくらい増加しているのも事実です。
地球全体の温暖化等の環境問題と国内の電力コスト、そしていつかは枯渇する石油資源の問題から、ある時点でのベストの答えが原子力発電だった事も事実でしょう。
その事を責めても仕方ありませんが、今にして思うと…。
いろいろな問題を抱える原発は無い方がいい、いつかは原発0(ゼロ)が望ましいと私も思っています。
しかし、原発が一基も動いていない今(川内原発は再稼動となりましたが、発電を開始するのはまだです)弊害が起きている現実もあります。
現時点では“原発”は「必要悪」なのです。
今の時点でただただ原発に反対するのではなく、自然に配慮した“代替エネルギー”の確立までの暫しの辛抱と考え、出来る限りの安全対策を講じて使うしかないと私は思います。
風力発電なのか、地熱発電なのか、はたまた思いもよらない自然エネルギーの活用なのか…ともかく原発に代わる代替エネルギーありきです。
再稼動ありきではなく、代替エネルギーありき、原発はそれまでの繋ぎエネルギーなのです。
“ いつまで使う ” の期限を区切る必要、大有りです。
いつ出来るか分からない物に期限など設定できない….そんな事はありません。
地球温暖化対策の京都議定書にも期限と目標数値があるじゃないですか(アメリカは批准してませんが)
もっと以前で言うと、自動車の排ガス規制。
マスキー法が最初だったと思いますが、いつまでに基準を達成できない自動車(エンジン)は、作ることも売ることも出来ないという法律をぶち上げたじゃないですか。
当時の自動車メーカー(特にアメリカへの輸出が拡大していた日本のメーカー)は、この法案に屈せず見事に基準を達成しました。
ある年ごとの厳しい数値への基準値の引き上げにも完全に対応できました。
当時は各メーカーとも頭を悩ませ、中には後に駄目エンジンと言われるような物も造ってしまいましたが、期限を押し付けられても苦難を乗り越え成功させて来た実績があるのです。
子孫のため、将来に渡って美しい地球を引き継ぐためを考えれば原発に代わるエネルギーの期限付きの開発を促進すべきではないでしょうか。
日本人のあるいは世界中の優秀な頭脳を集結させれば、低コストでクリーンで有望なモデルの開発が必ず出来ると私は確信しています。
原発素人の勝手な言い分にお付き合いありがとうございました。
(早稲田育英ゼミナール 読売ランド教室) 2015年8月11日 23:51
パソコン・ケイタイの功罪と国語力、そしてコミュニケーション
しかし人間の方がこれについて行けない事態がしばしば起きます、特に私の場合ですが。
先日書いたブログですが、あとで読み返して誤字に気が付きあわてて修正しました。
“安倍総理”と記すべきところを“阿部総理”と変換し文章化したまま完全にスルーしていたのです。
一国の総理大臣に対し、お名前を間違えるなど大変失礼なブログですが、自分では安倍総理と書いたつもりで文章を終わらせていました。
非常に便利な変換機能ですが、これなど完全に人間の方が置いてけぼりをくっている感じです。(私だけかも知れませんが…。)
この例はまだいい方で、“先読み変換機能”これは特に気をつけないといけません。
語句の先頭の文字の一部を入力するだけで、語句全体を変換してしまう機能。
急いで文章を打っている時など、うっかり十分に確認せずどんどん打っていくと、全然意味の通じないとんでもない文章が出来上がっている時があります。
全てにおいて注意深く常にチェックしながら入力していけば済むことではありますが、便利になったが故にそれを過信してしまって、結果として機械に使われている感があるのは私だけでしょうか。
そして一番気になるのが…。
漢字の変換は、その漢字の意味するところが分かっていて初めて文章を書く時に使える機能であると言うこと。
最近、元の“漢字”が分からず“感じ”或いは雰囲気で変換してしまっている文章(特にメールの内容)に出くわすことが度々です。
漢字の文化を有する日本人として、意味のある正しい文章で相手にちゃんと自身の意思を伝えなければ…と最近強く思っています。
少し話しは変わりますが、世間では最近「国語」という教科があまり重要視されていないような気がします。
中3生は別ですが、塾で受ける授業は“英語”“数学”をとる子がほとんどです。
“国語”も大事なんだけどなぁ…。
数学も大事ですし英語も大事です。
英語は喋るところから始める訳ですが、国語(日本語)は喋れちゃうからあまり気にしてないのかなぁ。
でも英語の文法を学ぶのであれば、国語の文法もちゃんと学んで欲しいと思います。
今キチンと理解しておかなければいけない事がたくさんあります。
例えば以前ブログでも書きましたが、「敬語」の使い方。
いま普通に使えるようにしておかないと、大学に進んでしまうと専門に特化した勉強になってしまい国語関連の学科以外では教えてはもらえません。
ましてや社会に出てしまってからでは教えても貰えないし、逆に正確に使えないと仕事にも支障をきたしてしまうでしょう。
こんな事を言ってしまったら国語の先生に怒られてしまいますが、尊敬語・謙譲語・丁寧語なんて面倒な区分より自然に人前で普通に話せる敬語を身に付けておくのは、中学生・高校生の今しかないのです。
そして相手にちゃんと伝わる会話、そして自分の意思が正確に伝わる文章が書ける事。
長い文章もちゃんと理解出来、相手の話す事もちゃんと理解出来ること。
これはとても大事です。
いま学校では“作文”を書く・学ぶ・指導する時間がないと聞きます。
ゆとり教育で総授業時間数が減らされ、5年前の学習指導要領の改訂で学習すべき内容ボリュームが増加して教科書も厚くなり、学校の先生も指導すべき事が増えて大変なご苦労かとも思いますが…。
日本人全体が国語力の低下に陥っているような気がしてなりません。
国語力が低下すると、「あいさつがきちんと出来ない」「話し手の喋っている内容が理解できない」「日常的に使える語彙が少ない」「単語を並べるようにしか話せない」などコミュニケーション能力が不十分になります。
そして、コミュニケーション能力が低下すると、自分の感情をうまく言葉で表現出来ずにもどかしさを感じ、最近では「むかつく」「キレる」に直結してしまっています。
このごろはいい大人でも「返事ができない」・「挨拶を返せない」・「ありがとうが言えない」人がなんと多いことか。
そんな時代のなか当教室では、国語力の育成に力を入れています。
例えば作文添削講座により、とにかく書いてみる、自分の思いを表現してみる、相手に伝わる言葉を考え出す…そんな指導もしています。
これは入試制度改革により記述問題の割合が増えた神奈川県の公立高校入試対策にも通じるものでもあります。
そして何よりも教科別の指導だけでなく、あいさつ・礼儀・みんなに迷惑を掛けない行動….自分がされて気持ち良い行いを推進し、自分がされて嫌なことをしない事。
塾長・講師全員が積極的に生徒と会話し、コミュニケーション・意思の疎通を取ることを重要視し、生徒たちが社会に出た時、立派な自立できる大人になって欲しいという思いで毎日子どもたちと接しています。
それは指導なんておこがましい行為ではなく、何気なく普通に解かっていって欲しいと思って日々生徒たちと楽しくやっている行動です。
(早稲田育英ゼミナール 読売ランド教室) 2015年7月31日 17:26
リーダーシップ
最終的には、安倍総理の決断でした。
船頭がたくさんいて、誰もが譲り合い(責任逃れとも言う)、ダチョウクラブの
コントのようなお粗末な成り行きに国民の大多数が嘆き、この問題を解決出来るのは森さんでも下村文科大臣でも遠藤五輪担当大臣でもなく、ましてや安藤忠雄さんである訳もなく、国民を代表している筈の行政のトップ総理大臣がここでリーダーシップを発揮するしかないと思っていた矢先の決断でした。
安倍さんには、一方で安全保障関連法案を通したい思いから新国立競技場の建設計画で少しでも国民の支持を得たいと言う思惑もあったと思います、しかしこの件に関しては総理大臣として決断をすると言うリーダーシップを発揮した訳です。
辞書で調べると、リーダーシップとは、指導者としての資質、統率力とあります。
私はリーダーシップとは、ひとつの物事に対し調整し、結論を出し、皆に示し、そしてそれを推し進める力 と理解しています。
さて、ちょっと身近なところに目を向けて見ましょう。
私の教室には複数の学校に在学する生徒が通っています。
同じ公立の小学校・中学校でも方針や考え方が色々あるものだと常々思っています。
学習指導要領や各都道府県或いは市町村の教育委員会の指針だけでなく、学校ごとの方針や特徴づけ、それぞれの学校で教員に対する指導事項があって然るべきと思います。
しかし、校長先生 もうちょっと統一指導して欲しいなぁ…なんて事もあります。
これはある中学校のお話しです。
定期テスト(中間テストや期末テストですね)ですが、教科によって書式がバラバラ。
まず問題の用紙のサイズがA4だったりB4だったりB5も紛れてたり、表紙が付いていたり無かったり、一枚のペラ紙の問題もあればA3を二つ折りにして冊子風の丁寧なつくりになった問題だったり。
問題用紙と解答用紙が別になっている教科もあれば、問題用紙にそのまま書き込む教科もあったり。
バラエティ豊かな問題のオンパレード…何故これほどのバリエーションが必要なのか疑問に思います。生徒を混乱させるのが目的 ? ? ?
民間の企業であれば社内資料だってこんな統一感のない資料なんて考えられません。
ましてや理解を得るべきクライアントに対して混乱を招くような資料を配布しているような企業に存続の未来はないでしょう。
学校に話しを戻すと、これこそ校長のリーダーシップの発揮いかんですぐにでも改善できる事ではないでしょうか。
安倍さんよりも調整は簡単に出来ると想像します。
先生は生徒を指導するのが仕事、校長や教頭は先生(教員)を指導するのが仕事…と私は思います。
逆にこんな話しも…。
だいぶ前の事ですが、ある変化があった高校があります。
その高校は茶髪で通学する生徒がかなり多い部類に入る学校でした。
ここで勘違いしないで欲しいのですが、世間一般的にみて髪の毛を染めることは悪い事だとは思いません。
私も以前は染めていた事もあります…白髪染めですが(笑)
しかし校則に茶髪禁止の事項があれば、生徒は守らなければなりません。
指導者である先生は校則を守らせねばなりません。
守る義務と守らせる責任が生じる訳です。
ある時この高校の校長先生が変わりました。
それからある程度の時が経ち、下校してくる生徒達を見ると茶髪の子が殆どと言っていい程いなくなったではないですか。
先生(クラス担任の先生や教科担当の先生)は、生徒を指導する立場にあります。
一方校長先生は、何百人も在籍する生徒の一人ひとり全てを指導できる訳ではありません。
校長先生は、それぞれの先生を指導したのです。
今まで出来ていなかった「生徒に校則を守らせる」と言うことを徹底的に先生に指導したのです。
組織とは分業のしくみの事です、学校も校長をヘッドに組織が存在します。
校長がリーダーシップを執って徹底して各教師を指導した結果が、校則を守る生徒の集団という結果として現れたのです、当たり前の事ですが…。
素晴らしいことです。
学校は、学問を勉強するだけの場ではありません。
将来社会に出た時に自立できる大人としての基礎を今育てる、その場所でもあります。
校則を守る=社会のルールを守るに通じます。
当教室も以前からモットーとしているように、受験の合格だけを最終目標にしていません。
将来みんなが社会に出た時、頑張れる大人、自立した本当の社会人となれる事を思い描き、その一助となれる教育を目指しています。
それが私の考える本当の教育として日々実践しています。
ちょっと脱線して。。。
校則違反はダメですが、どうしても実現したい事があるのならルールを変えればイイんです。
遠い昔の出来事ですが、私は高校生時代に学生として活動し校則を変えたことがあります。(正確には運動して変えてもらったと言うのが正解ですが…)
その話しは、また後日書きましょう。
そう、あれです。首都圏の公立高校では、今でこそ校則から無くなりましたが…制帽着用ってルール……..。
(早稲田育英ゼミナール 読売ランド教室) 2015年7月27日 19:59
ひとつの節目の春
寂しくもありまた期待も膨らむ 別れと出会いの交差する“ 春 ”
目標を達成した生徒達は卒業でひとつの節目を迎え、同級生たちとの別れの思いとそしてこれから始まる新しい学校生活への大きな期待とを 同時に抱いてそれぞれの学校を、そして塾を卒業して行きました。
卒塾生たちがお父さんお母さんを伴って挨拶にやって来てくれます。
中学3年間、或いは小学生の頃からずっと一緒に勉強して来てくれた子供達の顔が見られなくなるのは寂しいものです。
塾に通っている間みんな良く頑張りました、そしてそれぞれが皆成長しました。
頑張ってきたその経験と身に付けた力を、新たな場所で充分に発揮してくれる事を願っています。
うちの卒塾生たちは卒塾後も教室によく顔を出してくれます。
卒塾していった生徒達にも、そして高校生として続けて通う生徒達にも、そして小中学在学の塾生たちにも当然、私に縁のある地元の生徒達みんなに新年度もこれまで以上の、学校では出来ないバックアップ・サポート教育を改めて今年も誓う今日の塾長でした。
(早稲田育英ゼミナール 読売ランド教室) 2015年4月 1日 20:31
神奈川県公立高校 27年度入試 分析速報
昨年度よりも一層“思考力・判断力・表現力”を求められる問題の内容となりました。
特に記述問題では、与えられた情報をもとに、これらをどう分析して正確な答えまで辿り着くかというそのプロセスも含めた、知識だけではなく考える力が今まで以上に要求された入試であったと思います。
まだ全体のデータが出揃っていませんので凡その速報点数になりますが、各教科の受験者平均点は
英語 : 約60点(→) ( )内昨年対比
数学 : 約53点(若干↑)
国語 : 約64点(↑)
理科 : 約37点(↓)
社会 : 約49点(→)
と言うようにやはり今年度も難易度は高く、特に昨年問題視された“理科”などは平易化の予想に反し今年度もより得点の獲り難い問題となっています。
この傾向は標準化されて行くと思われますので、神奈川県の公立高校入試で良い結果を出す為には、普段からの学習でたくさんの演習を繰り返すことにより知識量だけではなく、考える力を身に付けていく事、思考力・表現力を早い段階から習慣として身に付けていく事が大切です。
※ 27年度入試 学力検査結果 確定版は「教育情報」ページをご覧下さい。
(早稲田育英ゼミナール 読売ランド教室) 2015年3月22日 14:40